ミュージック・セラピー
セッションの一例
1.Dream
and Music セッション
2.ピアノを使った子供とのセッション
3.遷延性意識障害の少女とのセッション
4.75歳の女性とその家族とのセッション:出会いから亡くなるまでの1月半
1.Dream
and Music セッション
Guided Imagery and Music
のページをご覧ください。
2.ピアノを使った子供とのセッション
ベビーシッターに預けられないので、お母さんが3歳の男の子と6歳の女の子を一緒に連れてきて、1時間のセッションのうち、40分はお姉さん20分は弟のピアノのレッスンをしていました。
待っているほうは静かにしていなくてはいけません、どんなにピアノに触りたい衝動に駆られても!これは子供にとってとてもつらいことですが、よい学びの機会でもあります。
ある日は、お姉さんが”お祭り”という曲を弾いていたので、お祭りの絵を待っている間に書いてもらうことにしました。そうすると彼は、日本でのお祭りやアメリカであったフェスティバルの絵をわき目もふらずに描き始め、お姉さんのレッスンが終わったときは、みんなで彼の絵について話をし、彼は自分の絵について、自分の感動について人に語る機会がもてました。
一方お姉さんのほうは、私のところに来る前はとてもテクニックに厳しい先生に習っていたらしく、どの曲を弾いても表情のない彼女らしさが出ていない弾き方をしていました。こうしてはいけない、ああするべき、という先生のアドバイスが彼女の可能性を制限しているように思えました。
でも、作曲家はいろんな感情をもって作曲したのですから、それを自分自身で理解して、いろんな音色で奏でるほうが、指が早く動くことよりも、もっと大切だとおもうし、そのほうが弾いていて楽しいでしょう?
少し私のスタイルに慣れてきて、すっかり私のことを信頼してくれるようになったころ、即興演奏(楽譜なしで、いきなりピアノで何でもいいから弾く)をしてみようよ!と持ちかけました。彼女がその提案を受け入れるまで何度かのセッションが必要でした。これはとても理解できることで、今まで楽譜をそのまま弾いていれば間違いはなかったのに、今度は楽譜も何もない自分だけが”音楽”を作らなくてはならない、というのは不安な気持ちになるのも当然です。でも、後日彼女は私や弟との即興演奏をとても楽しむようになり、歌も一緒に作りました。
クリスマスコンサートでは、一緒にプログラムを考え、インビテーションカードを作り、当日はビデオで録画し、演奏者の演奏はCDに焼きました。大人から子供まで集まったこのコンサートは、本人たちにとってとても心に残る瞬間だったでしょう。生徒たちがビデオやCDのコピーを日本の家族に送って感動された、と誇らしげに話してくれているのを聞いて、私もとてもうれしく思いました。
3.遷延性意識障害の少女とのセッション
生まれてから15年間遷延性意識障害の女の子A.は、妊娠6ヶ月目に未熟児として生まれ、脳髄膜炎と診断されます。気管に問題があり、喉にあけられた穴にチューブを入れ酸素が送り込まれているます。目は閉じることが出来ず、血管から血がにじみ出ているので、ガーゼで覆われています。身長は約1メートルあるが、手足の筋肉は使用していないためほとんど発達していません。大きい音に条件反射することも無ありません。栄養は点滴からのみです。
セッションは週2回、一回約20分。私は ベッドサイドに立ち、Aがその日、その瞬間発しているエネルギーや呼吸の仕方を、注意深く観察しながら、話しかけました。そして、彼女の体が発するエネルギーや呼吸に合わせて、ギターを弾きながら、Aの名前を取り入れたセッションの始まりの歌を歌います。セッションの中間部分は、彼女の呼吸の変化、微妙な体の動きを音楽や歌詞に取り入れながら、即興で歌を作っていきます。セッションの終わりは、次のセッションがあることを知らせる、いつもの終わりの歌を歌います。
初めてのセッションでは、私が終わりの歌を歌い終わった瞬間、ため息をしました。次回から私が歌の途中で息継ぎをするタイミングで、深いて通常より長い息をするのが観察されました。この時点で、彼女のため息は偶然起こっているのではなく、私と音楽との関係の中で生じている事だと感じました。
セッションを始めて約1ヵ月後のある日、歌の途中で、顔を真っ赤にしながらゆっくりと90度くらいまで起き上がり、また、ゆっくりと元の仰向けの状態に戻りました。その次のセッションでは2回、20分のセッションの間に起き上がりました。残念ながら、私 の都合で、それが最後のセッションでした。
Aにとって私の創る音楽は、生まれて初めて自分自身と呼応する対象だったと考えられます。音楽は、多くの医療関係者や家族と異なり、Aに反応する事を要求せず、彼女のありのままの状態を受け入れ、それを「音」「歌」という形に反映しました。彼女の発するエネルギーが変われば、音楽のテンポや音量も敏感に変わります。これほどまでに彼女の微妙な変化に逐一気付き、それを意味ある形に転換する音楽と私 は、彼女をそれに積極的に関わりたいと思わせたのではないでしょうか。理論的には、彼女の病状から自力で起き上がったり、感情を持つことは、全くありえないことです。しかし、私と音楽を通じたユニークな関係は、15年間誰も踏み入れることがなかった何かに触れ、彼女を突き動かしたのだと信じています。
このような奇跡的なことが起きたからといって、遷延性意識障害から回復するわけではありません。しかし、一見無反応でも、よく注意して関われば、そこには人間の証が確かにあり、人間としての関係を築く事が可能であることが、このケースでは証明されました。遷延性意識障害や、昏睡状態の人と関わる時、多くの場合、話しかけたり体に触れたりして、その人が体を動かしたり、発声するのを期待します。しかし、それはあくまで私たちのやり方でコミュニケーションをとろうとしているに過ぎません。彼女の反応を期待せず、ただ彼女に寄り添い、受け入れ、その空間と時間を共有する事により、「彼女の」意思表示の仕方、生き方、が理解出来、「私達の」ではなく、「彼女の」やり方でコミュニケーションを図る事が可能になります。この時、音楽は、言葉を必要としない、患者のありのままを受け入れ、また呼応することの出来る方法として、とても有効であることが、このケースから言えるでしょう。
4.75歳の女性とその家族とのセッション
~出会いから亡くなるまでの1月半
クライアントは75歳 の女性. 週2-3回 約30分のギター、歌、ベルを使ったセッション。私が行く時は、いつも、孫が付き添いでいて、最初2回のセッションは、孫N(彼女)も参加しました。クライアントは ゆっくり進行していく病気で、今はいつも椅子に座っています。自分で体は動かせんし喋れませんが、ベルを音楽に合わせてささやかながら演奏し、とても積極的に音楽に関わっていました。彼女の名前を歌に入れ込んで歌う時は、歌おうと口と舌を必死に動かしていました。
セッションの目標は、クライアントが表現の自由を音楽を通して経験する事 (Give her a voice through music)、 Grief Process (病気のせいで失った自分の能力、生活、人間関係や、旦那を失った悲しみを慰める )でした。
最初の2回のセッションで、Nはいつもクライアントの代弁をします。”おうちに帰りたいんだよねー” ”音楽ってすごくいい,って言ってる”。 Nの歌の選択から、Nは意識していないけれど、この状況を相当ストレスフルだと感じていて、少し休む事が必要だと思いました。とても献身的で、それを進んでやっているけれど、自分が意識している以上に疲れてる。おばの娘 (Nの従姉)が脳の癌で入院しているので、おばの話し相手役にもなっている。
お互いのニーズに違いがあることが明らかになってきたので、3回目のセッションからは、クライアントと二人にしてもらう事にしました。Nはセッション中、一人の時間を持ってもらうことに。これによって、私はクライアントのニーズにフォーカスしてセッションを進めていく事が可能になりました。
クライアントは少しパーキンソン病の症状もある、神経系の病気のせいで、喋れないけれど、Nという代弁者がいなくなった事で、この後のセッションでは一生懸命口、下、頬を動かして話そうとする行為が増えました。音にはなかなかならなくて、私が唯一聞いた音は”あー” という短い音。 ただ、口の動きを見ていると、明らかに”ありがとう" と言おうとしているのが分かったりしました。
ある日いつもの様にクライアントの部屋を覗くと、何故か沢山(10人以上)人が部屋にいる。Nが私を見つけて部屋の奥から出てきて涙ぐんで言う。「おばあちゃんが危篤なの。だから、家族が集まっているの。」
私は、”じゃぁ、今日はみんなで歌を選びあって、それぞれが大事だと思っている事を、おばあちゃんと共有しませんか?”と提案する。皆に自己紹介をして、セッションの趣旨を説明する。歌う人もいれば、体をゆすっているだけの人も、クライアントの手を握っている人も、ビデオを撮り始めたり、涙している人も。クライアントも無反応だったのが、指が動いたり、表情が動いたり。クライアントのエネルギーにあわせた音楽のテンポやボリュームの選択は、クライアントの存在を中心とした空間のエネルギーを作り出し、家族はそれを生々しく肌で感じた事でしょう。久々に何か心の深い所に響いた、セッションでした。
翌日、もう彼女は亡くなっているのか、と思うと残念な気持ちでもありましたが、ある意味スピリチュアルな繋がりも感じてました。週2,3回しか行かないのに、その日が長い人生が終わる瞬間だった彼女と、彼女の大事な人たちと共に作ることが出来た事に対して、何か感慨深い気持ちがしました。